Traditional Ayurveda Japanの軌跡 4
2018年9月
Traditional Ayurveda Japan は「アーユルヴェーダスクール」として再び新たな歩みを始めることになりました。
この機会に、これまでの歩みを振り返り、ここからの展望についてこちらに記しておきたいと思います。
(Traditional Ayurveda Japanの軌跡1はこちら)
(Traditional Ayurveda Japanの軌跡 2はこちら)
(Traditional Ayurveda Japanの軌跡 3はこちら)
自分って何?の答えを探していた
記憶を辿っていくと、小学校に上がる前にすでに「私という体と、私を認識しているものの関係」を知りたいと思っていました。
転んで痛い、という体と心の関係です。
随分と哲学的な子供です(笑)
なぜそんなことを思い続けてきたのか、ずっとよく分かっていませんでした。
ですが、母の死に立ち会う中で、「自分」という存在を肯定する理由を探していた、と理解できました。
アーユルヴェーダに出会った時、電流が走るように「これだ!!」となったのは
私という存在を明らかにし肯定する方法が教えられていたから、です。
人の数だけ個性がある。
同じ人でも常に変わり続けている。
私という個性が確認ができたこと、存在している理由を見つける手段を発見した!と小躍りしたのです。
手段と目的に混乱がおきていた
アーユルヴェーダを学び始めた当初は、何もかもが新鮮で、知れば知るほど「なるほどー!!!」と腑に落ちる。
ああ、面白い、素晴らしい!!
と感動していました。
ただ、この時点で私は大きな間違い(勘違い)を冒します。
アーユルヴェーダの
「治療法」「養生法」「薬草」と、それが記されている文献、文化=素晴らしい
に設定してしまった。
インドに単身乗り込んだ時も、日本では見ることも学ぶこともできないアーユルヴェーダ病院で行われている治療や治療結果という「事象」にワクワクしていました。
素晴らしきアーユルヴェーダ!!!
と、日本に持ち帰りみなさんに伝えはじめます。
振り返って見ると、すでにこの時点で、そもそも私がアーユルヴェーダに求めていたものと、見ているものが違っていました。。
私は「いのち」の意味が知りたかった。
存在している、この肉体と、心、そして「私」というものが知りたかったのです。
アーユルヴェーダが良いガイドになってくれるはずが、
アーユルヴェーダという学問を修めること、に目的が入れ替わってしまったのです。
手段が目的になってしまう。。よくあるパターンです。。
罪悪感とプレッシャーからようやく解放される
長い旅路と気づきを経て、ようやく全てが理解できました。
スクール運営をしていく中でどんどん大きくなった罪悪感とプレッシャーの原因。
そもそもの目的が違う「学問」そのものを教え続けていることの苦しさ。
加えて、「私なんて、まだまだだし。」という低いセルフイメージが、こんな私が教えてていいのか?という罪悪感になっていく。
だから、インドの施設と提携したり、自分より「できる」人たちを周りに配置して安心しようとした。
ああ、そうだったんだなあ。とストンと背負っていた荷が降りた感覚を得ました。
そして
ずっと頑張ってたね。。よくやったね。
と自分を褒めてあげた。
ようやく苦しさから解放される事ができました。